「正したい」と「正す必要はない」は両方ないとダメ
国じゃない国の料理に光をあてるcookbook その2
正義の話をしようじゃないか!
というわけではないんですが、2月4日付けワシントン・ポスト紙に掲載された、パレスチナに光を当てたcookbookの記事を読んでいっています。
昨日のストーリーでは、先日2月5日に発売されたcookbook『Zaitoun: Recipes from the Palestinian Kitchen』と、その著者であるヤスミン・カーンについて、ちょっとだけ頭出しのご紹介をしたんでしたね。
パレスチナ料理のcookbookを作るにあたり、そもそも「パレスチナ料理」とはどこまでを言うのかが非常に決めにくかったということでした。
そこには、国のない国とフィクションから立ち上がった国の問題が複雑に絡み合い、料理本であるにもかかわらず、「国」とは何かという根本的な問いがあらわになっているんでしたね。
さて、今日はその続き。
『Zaitoun』以外のパレスチナ料理のcookbookが登場してきますよ。
パレスチナの食べ物についてのストーリーを語ろうと挑戦した作家は、カーンだけではない。フィラデルフィア在住の作家、リーム・カシスは、2017年に『The Palestinian Table』を上梓している。
このリーム・カシスの『The Palestinian Table』は、昨年の9月にククブクでも著者インタビューをご紹介しましたね。
パレスチナという国はなくても、パレスチナ人である自分というのは揺るぎないものであるということを、彼女が語っていたのが印象的でした。
そして、
イスラエル系英国人シェフ、ヨタム・オットレンギの長年のビジネスパートナーであるサミ・タミミは、今春、自身のパレスチナのcookbook『Falastin』を出版する。
世界中のホームクックたちから信頼されているヨタム・オットレンギのビジネスパートナーであり、『Jerusalem: A Cookbook』の共著者であるサミ・タミミも、パレスチナ料理のcookbookを出すんですね。
↑このストーリーでも書きましたが、ヨタム・オットレンギはイスラエル系、サミはパレスチナ系。
そんなふたりがあの「オットレンギ」を一緒に経営しているんです。
カシスの説明によると、このブームは需要と供給の単純な一致だという。
過去10年のあいだ、イスラエルの食事はアメリカで爆発的な人気を博してきた。フィラデルフィアの「ザハヴ」が先鞭をつけ、すぐにニューヨークの「バラブースタ」、ニューオーリンズの「シャヤ」、ワシントンDCの「リトルセサミ」などが後を追った。
マイケル・ソロモノフの「ザハヴ」、アロン・シャヤの「シャヤ」については、それぞれが出したcookbookについてククブクで書いたときに触れました。
これらのストーリーではぼくも「イスラエル料理」と気軽に書いていますが、本当はそんなふうに国名を冠して書くべきではないのかもしれないです。
意図的かどうかはともかく、これらの店のせいで多くのフード愛好家たちはフムスからおしゃれな穀物「フリーカ」まで、すべてを「イスラエリ」と呼ぶようになって、パレスチナ人たちをイライラさせている(特にいらだたしいのは、細かく刻んだサラダを「イスラエリ・サラダ」と声高に言うことで、イスラエルでさえ、ほとんどのひとがそれを「アラブ・サラダ」と呼んでいる)。
「突如として、政治的な世界だけでなく食卓においても、衝突が生じるようになったんです」とカシスは言う。「広く出回った誤った情報を、正しくしたいという欲望があるんです」
その一方で、きちんと学んで食事をするひとたちも増加している。彼らはこのような非常に腹立たしいまちがいを避けたい、西欧人が長いあいだ「中東料理」と言ってきたものを解きほぐしたいと熱望している。
「『中東料理』と呼ぶことは『ヨーロッパ料理』と呼ぶことに等しいんです」とタミミは自宅のあるロンドンからEメールで述べている。「その料理や伝統、素材の違いさえちゃんと評価していないんです。それらが地域を明確に分けているにもかかわらず。パレスチナの食べ物に焦点を当てることで、私たちはパレスチナに向けて個別にレンズを構えることができるわけです。何があるか、どこにあるか、どんなひとがいて、どんなおいしいものがあるかに」
これは、「インド料理」や「中国料理」にも言えることだなあ。
ぼくたちは、いつも何かをひとくくりにしたがる。
作家たちは、各々特別なレンズを採用している。カーンの『Zaitoun』はcookbookでも旅行記でもあり、その現在のフードシーンのスナップショットを提供してくれる。彼女は「ムサッハン」 — — ピタパン、スーマック、玉ねぎとともに提供されるローストチキン — — のような古典料理も載せているが、実際に目にした土地、食べたものにインスパイアされたレシピもたくさんある。
パレスチナ人の料理人から、カーンはアボカドをピクルス漬けにする技術、まだ固い果実を数時間で熟させる素晴らしい解決法を学んだ。しかしそれはパレスチナ料理の伝統ではないのだ。たとえカーンがハイファのレストランで食べたとはいえ、チョコレート・ココナッツ・ケーキのようにあまりパレスチナ的でないものも少なからずある。
そうした方針は、まちがいなく伝統を重んじるひとたちを不機嫌にするだろう。しかしカーンは、そのような懸念は相手にしない。
「私はおばあちゃんたちが料理をするような、正統的で伝統的な方法を探し求める料理人類学者ではないんです」と彼女は言う。「私がラマッラーにいて、パレスチナ人シェフが何かを出してくれるなら、それはパレスチナの経験なんです。それは人びとが食べているものを代表しているんです」
これ、ことばも同じかもしれないです。
よく「そんなことばは存在しない!」とか「そのことばはそういう意味ではない!」と憤るひとがいますが、ことばというのはその時代や場所に合わせて姿を変えていく流動的なもの。
先日NHKで放送された糸井重里さんと芦田愛菜さんのテレビ対談では、糸井さんが若者ことばは「今までのことばではオレの気持ちを表せない」と思うからこそ生まれるものだと語っていました。
ことばも料理も生きている(生まれて死んでいく)のは、それを使ったり食べたりする人間が生きている(生まれて死んでいく)からという単純な事実が、意外と忘れられがちです。
これとは対照的に、『The Palestinian Table』は正統性を重んじ、カシス一家の140のレシピを掲載して出版されている。クルミやニンニクのラブネやムハンマラといった北部に多く見られる小皿料理や、伝統的にガザで食べられるエビや魚介の料理、そしてヨルダン川西岸地区の肉料理などが含まれている。
「むかし母が、自分で作ったレシピをすべてきちんと書いておきなさいと言ったんです」とカシスは語る。「本に取りかかり始めたとき、エクセルのスプレッドシートにはすでに275種類のレシピがありました」
カシスにとって大きな悩みは、どのレシピを入れれば目的を果たせるかということだった。古典料理は入れなければならなかった。マフトゥール、マクルーバ(ラムの煮込みを載せたひっくり返したライス)、
そして「シュラク」と呼ばれる紙のように薄いパンに載せたラム肉とヨーグルトのライスシチュー、マンサフ。
しかし生肉が分厚いペースト状になったクッベ・タルタルはどうか?
アメリカ人はそれを作らないだろうし、作ってくれる肉屋もないだろうことは、カシスも知っていた(完全に刃が清潔な肉挽き器に、2回かけなければならないのだ)。しかし彼女の母は強く主張した。「それはパレスチナのもので、そこに載っているのを見たいパレスチナ人もいるはず、ってね」と彼女は言う。
どこに境界線を引くかがむずかしいのは、土地だけではないんですね。
それにしても、パレスチナ料理がどれもおいしそう!
食べたくなって調べてみたのですが、東京の十条には「ビサン」という名店があるみたいです。
今度行ってみようっと。