どんな文化も孤立無援じゃない
ソウルフードとは何かを考えるcookbook
いままで何の気もなしに「ソウルフード」ということばを使ってきましたが、これを読んで、ソウルフードとは何かということを真剣に考えてしまいました。
本日ご紹介するのは、フード雑誌「ボナペティ」のウェブ版に掲載されていた、アトランタのシェフ、トッド・リチャーズの新刊インタヴューです。
「私の先祖たちは奴隷でした。私たちがグリッツを食べるように彼らはフフを食べ、私たちがビーフジャーキーを作るように彼らはビルトングを作っていました。そして私たち同様に、保存のために塩と酢を使っていたんです」と、トッド・リチャーズは新しく発売される自伝的cookbook『Soul』に書いている。
聞きなれない料理名が出てきていますね。
「フフ」は、西アフリカなどで主に食べられている、モチっとしたイモ団子のような料理。
「ビルトング」は南アフリカのビーフジャーキーです。
「『Soul』で使われているフレーバーには、私たちがどこから来たのかが表現されています。それと同じくらい重要なことが、今日どのように料理をするかということが、私たちがどこへ行こうとしているかを決めるということなんです」
料理には、それを作った人間がどこから来たのか、どんな文化に影響を受けて育ってきたのかがストレートにあらわれてしまいます。
誰もがそのことは理解していても、いまぼくたちが作っているものが、未来のひとたちの料理を規定する「呪い」にもなるということは、案外無自覚なひとが多いのではないでしょうか。
過去のSF映画なんかを見ているとわかりますもんね。
人間ってそこで表現として生まれたものにとらわれてしまって、その通りの未来を実現しよう!という道を歩んでしまいがちです。
シカゴに生まれ、アトランタを拠点とし、西アフリカにルーツを持つリチャーズは、その人生のほとんどを黒人シェフを取り巻くステレオタイプと抵抗することに捧げてきた。ジェームズ・ビアード賞に2度ノミネートされている彼は、そのキャリアの当初、インタヴューのために高級レストランの厨房に足を踏み入れたとき、白人シェフに「ここで何をしようというんだい? フライドチキンかマカロニ&チーズでも作るのか?」と訊かれたという。もちろん、リチャーズは誰もが食べたことがないような、最高のフライドチキンとマカロニ&チーズを作ることができる。しかし、彼のストーリーはそこで終わりではないのだ。閉じられてさえいない。
リチャーズのキャリアはクローガーの精肉売場から始まり、リッツカールトン、フォーシーズンズを経てアイアンシェフに出演し、いまに至る。 独学のシェフは現在、受賞経験もあるアトランタの空港の食堂「ワン・フリュー・サウス」、ラッパーのリュダクリスのレストラン「チキン+ビア」の料理ディレクターを務めている。
2016年、彼はアトランタに高級志向のホットチキン店「リチャーズ・サザン・フライド」をオープンした。
2017年にはシェフのガイ・ウォン、ミクソロジストのクリスタ&ジェリー・スレイターとともにポップアップダイナーを始めた。そして今年、彼は最初のcookbookをリリースした。
これらすべてのバランスをとるのはむずかしいように見えるが、リチャーズは逃げ出したりはしない。「正直に言えば、みんなが私に何を期待しているのか、もうわからないんです」と彼は言う。「黒人文化に情熱を抱きつづけて、シェフ15年目を迎えました。そのことには満足しているんです」
地元でいくつものレストランを成功させ、次の段階としてcookbookを出すというのは、よくあるパターンではありますね。
本日発売になった『Soul』では、リチャーズはアフリカ系アメリカ人料理の多様性を表現した150のレシピを紹介している。歴史の授業や、彼の過去に影響を与えた逸話も散りばめられている。たとえば、どのようにしてスイカは「解放された奴隷の自由の象徴」から「いまも続く人種差別の比喩」になったのか。
日本のケンタッキーフライドチキンで、カーネルサンダースの人形にスイカを持たせたら、海外から「差別ではないか」と抗議が寄せられた、なんてこともありました。
そしてリチャーズはそれをどのように用い、ステレオタイプを撤回し、新しい力を与えるのか。彼の両親は、コラードグリーンにによく近所の中華料理店からもらってきた残りもののチャーハンを混ぜたものだった。なぜなら、どんな文化も孤立無援ではないからだ。
チャーハンに混ぜたコラードグリーン。
これって、アメリカのマイノリティー社会の連携と、その反対側にいるひとたちの存在を、すごくよく象徴的に表していると思います。
「どんな文化も孤立無援ではない」
響くなぁ。
「私はなぜ食べものはそんな大雑把に一般化したことばでカテゴライズされてしまうんだろうと、いつも不思議に思っていました」と彼は書いている。「レッテル貼りを控えめにすること。そうすればキッチンで自由を獲得し、料理人として成長し、その味覚はより良いダイニング経験を積むことができるでしょう」
この本に載っている料理は豪華に撮影され、お湯で作るコーンブレッドからウニのグリル、桃のサラダ、ラム肉のミートボール串のイチジクのヨーグルトソースがけまで、材料ごとに大雑把に分類されている。ややカオス的に思えるかもしれないが、リチャーズはそれを個人的なものにし、それゆえに機能している。
「黒人シェフはよくソウルフードという考えにとらわれてしまいます」と彼は言う。「でもそれを入り口として使うことだってできるんです」そこにはある料理文化を断言し、その価値を主張する力強さがある。リチャーズは、ソウルフードは作るのに時間がかかるけれども(シンプルなコラードの煮込みだって、何時間も火にかける必要がある)、ダイナーはその見返りをあまり要求しようとしない、と指摘する。「経済的な観点でいうと、もしほとんどの労働を引き受けさせられ、最低限の料金を請求するような場所に追いやられたら、どのように社会に上向きのムーヴメントなんて起こすことができるでしょうか?」
たとえば、このあいだぼくは名古屋に行ってきて、味噌煮込みうどんはソウルフードだ、なんて軽々しく書いてしまいましたが、果たしてそんな言説にどれほどの意味があるのか。
巷にあふれる「〇〇は××のソウルフードだ!!」といった情報は、内容を読めばそれこそステレオタイプな浅いものばかりで、そこに生きてきたひとたちや風土を考察する視点があまりにも欠けているように思います。
『Soul』には文化的な正義の感覚が隅々にまで行きわたっており、料理をし、レシピを共有するというリチャーズの喜びにもあふれている。自家製のグリッツ・クルトンにかけて提供するホットチキンスタイルのエビ料理は、おいしく遊び心にあふれていて、南部沿岸州を再考するものだ。
レシピはこちら▼のページに載っています。
「私はエビとグリッツのアイディアを発展させたかったんです。でもその料理の起源がどこだかわかるくらいには、なじみのあるものにしたかったんです」と彼は言う。リチャーズはエビのうま味を最大限にするため、殻と頭をスパイシーでクリーミーなソースに混ぜ、「ホットチキン」という名が与えられたと思われるパン粉の衣を避けている。「もし衣をつけてあげると、エビのエッセンスが衣のなかに逃げてしまうんです」
グリッツのクルトンはどうか? 「冷めて鍋のなかで固まった残りもののグリッツは、普通は不運の丸い球として捨てられてしまいます」とリチャーズはそのレシピの頭に書いている。
食品ロスの問題意識も、このcookbookには込められているわけですね。
「不運の丸い球」って表現、いいなぁ。
「温めなおすことは理想的ではありません。水を加えるとべちゃっとするし、味気もなくなってしまいます。その代わりに、冷たいグリックを四角く切って揚げるんです。そして楽しむんですよ」
リチャーズが作るすべてのものに内在するのは、食べものそれ自体に対する敬意であり、何世紀にもわたってそれを作り続けてきたあまたの手に対する敬意である。「グリッツを捨てるなんて冒涜ですよ」と彼は言う。「つまり、作るのに40分もかけたものを、どうして捨てるなんて考えることができるかってことなんです」
食材に対する敬意、という点では、日本料理に通じるものがありますね。
リチャーズは自分の本を政治的ステートメントだとは考えていない。彼にとって、それは家族、歴史、厳しい労働についての単なる正直な物語にすぎないのだ。「この本はトランプを打ち負かすものではないんです」と彼は言う。「それは彼が自分ですることだろうと思います。これは次世代の料理人を勇気づける手段なんです。私の望みは、彼らに私が到達した場所よりも遠い場所まで行ってほしいんですよ」
なんでだろう? いまモンテーニュの「賢者は愚者に学ぶ」ってことばが頭にポッと思い浮かびました。
トッド・リチャーズの初のcookbook、『SOUL: A Culinary Evolution in 150 Recipes』は、アラバマ州の出版社オックスムーア・ハウスから現在発売中です。